映画・ナージャの村/アレクセイと泉

ナージャの村

 2012.6.30  カピオホール

 


・何が大切なのか、どう選択して生きていくべきか考えるました。音楽もよかったです。

 

 


・続編が見たいです。TV・映画・DVD何でもOK!

 

 


・心が大きく揺さぶられました。この振幅を大切にしたいと思います。

 

 


・ひとことでは言えません。とても沢山の事を考えています。

 

 


・映画もとても良かったですが、監督のお話を直接うかがえてたのが実によかったです。「原発反対」を声高に言うデモ(こういう行動も大切かもしれないけれど)と違い、静かに、私たちの生き方について問う、そんな映画でした。映画に登場する人々をとても身近に感じ、知らなくても、今はどうしているのだろうと想像する。そこで暮らしている事に思いを馳せる。

 

 


・とてもよかった。

 

 


・とてもいい企画でした。

 


 

・帰りが遅いので、迷いましたが来てよかった!ドゥヂヂ村も、飯館村も本当に美しい村です。この村を汚したのが、悪魔でなく人間であることが悲しい。

 


 

・放射能の怖しさと共に、望郷の念の強い人々に感動したとともに、私も同じだと強く思った。

 


 

・寒かったです。“命の循環”が、“命につながっているふるさと”がヒシヒシ伝わってきました。

 

 


・「ナージャの村」。放射能のことをすっかり忘れてしまうほど、すばらしい風景と地域の共同体の人々のかかわりに時間を忘れました。田舎暮らしに憧れている私ですが、こんなには自然と生きてはいけないかも…都会というか、消費生活に慣れてしまって。

 

 


・監督のお話で、新幹線とリニアモーターカーの件、ハッとさせられました。何もかも“日常”で盲目となっています。目(感覚)をとぎすませないとおけないですね。

 


 

・ ただただ小さな村の静かな生の営みがそこにありました。その営みを支える大地を根こそぎうばってしまうゲンパツをなくしていくために、長く長く考え行動していきたいと思います。

 

 

 

 

・ナージャたちのその後は?放射能の影響は?元気に過しているのでしたら何も言う事はありません。幸せな日々です。桃源郷です。

 

 

・続編の予定は?

 

 

・ この村での放射線量はどれだけですか?

 

 

・今、自分が感じている考えている事と同じ方向を向いていらっしゃるなと思いました。「足るを知る」こと実践しています。


 


見ている時以上に、その後回想することで感慨がわき起こってくる映画というのがある。僕にとって昨日見た「ナージャの村」がそれだった。

 

1986年のチェルノブイリ原発事故。放射線が強く、立入禁止区域に指定されているベラルーシのデュヂチ村に、あえて住み続けている数世帯の村人の生活が、少女ナージャの家族を中心に淡々と、美しい映像とともに綴られている。

 

 

上映後の舞台挨拶で監督の本橋誠一さんは、最初に村を訪れた時の印象を語る中で「命が見えた」と仰った。本橋さんが最初は直感で捉えたはずの「命」は、その後の撮影の中でより具体的に見えてくる。この映画の中で、最初は子供たちの溌剌とした姿や四季折々の豊かな自然、みずみずしい果物といった「生」で表されていた命の姿は、後半、むしろ「死」によって強くかたちづくられているように思われた。

 

例えば、可愛い可愛いといって育てられてきた豚が殺され、枝肉となり、臓物がソーセージに加工されていくシーン。毛をバーナーで焼き、解体し切り分けていく所作はまるで儀式のようであり、本橋さんの直近の作品「屠場」にも感じる、命をいただくためにその命を奪うことへの厳粛さが感じられた。

 

老いたチャイコバーバが大切に育てていた、老いたヤギが死んだ時に言った「あんなに可愛かったのに。もう乳も肉もない」と哀切と悔しさが入り混じった言葉。映画の中でヤギの乳を絞るシーンはあったけど、肉とは。彼女は、自分が可愛がったヤギの肉を食べるのを楽しみにしていて、それが犬に食われたのを悔やんでいたのだった。

彼女には、ペットという概念は存在しないのかというと、それはある。家の中で飼っていた2匹の猫には貴重なパンを、これまた貴重なバターをつけて食べさせていた。

ちょっと話がそれるけど、京大の小出裕章さんが講演で見せていた写真の、チェルノブイリから着の身着のままで避難する女性が抱えているものが1匹の猫であるらしい。食料や衣服よりも大切にされている猫がロシアやベラルーシにも確かにいる。

 

可愛がっているものを食べるというのは、その生命が奪われる局面を中心にみると残酷にも見えるが、昔の田舎では、食べるための豚や鶏やヤギが、家の庭で可愛がられ、愛情を注がれて育てられていたことからも、これは矛盾しないのだろう。僕自身はちょっと抵抗があるけれど、それは僕の食卓から命が見えないからなのだろう。

むしろ命が奪われる場が目の前にあることは、その命をいただくというのが、厳かな営みであることに気づくことができる。

死によって生が照らし出される。

 

母の一周忌を忘れていた村人が、みんなに言われて仕方なく墓参りをする。失礼なほどいい加減に墓前のしつらえをしながらも、その村人は涙を流す。亡き母を思い出しているのだろう。母もまた、この不孝者を天から見下ろしているのだろう。そんな回想と哀悼の場が、まだここにはある。

 

 

この映画は、放射能の医学的な影響による悲惨、という観点はほとんど提示されていない。避難区域内に放射線の影響を受けやすい子供たちを、被曝させながら留めるということは難じられてもいいようなことだが、そのような視点は排除されている。その点で批判もあるかもしれないし、最初僕も気になった。

 

でも何度も映画を回想していくうちに、本橋さんは全く別のことをいうために、それに必要不可欠な要素だけで映画を構成するために、美しすぎるようにも思える映像をつくったのではないかと思うようになった。

 

たとえば、劇中何度も出てくるジャガイモに着目してみる。ジャガイモは豊かな実りを表し、村人の糧となるものとして描写されている。都会に住む息子へ届けられるために避難区域のボーダーを越境する自由もある。そして翌年の春には再び畑へ植えられて、さらなる実りを見せる。ここでは生と死が繰り返されるなかで再生があり、それゆえ「命」が十全に機能している。

翻って、人はどうか。村を出た者はいつか村へ帰ってくるが、棺から出ることはない。村の中では新しい命の誕生はない。そこには死があるが新たな生がない。再生がないのだ。「命」が十全に機能しない状態。

チャイコバーバが、雪に覆われた畑に向かって、絞りだすように、春になったら植える作物の名をあげるのが印象的だ。そして、もう冬は嫌だと。

 

学校のため村を離れた少女ナージャも、いつの日か、逝くときがくる。そのとき、彼女は村へ帰るのだろうか。

棺を担ぐ者はいない。住む者も、回想する者も、供養する者もいなくなる。哀悼の場所も、天国から見下ろす故郷もまた。

完全に村が消滅する日。

そのときこの映画は、デュヂチ村の墓標となるのだろうか。

 

どうしようもなく負わされた過酷な運命。しかも神から与えられたものではない、国家権力の愚かさが招いた理不尽であるが絶対的な消滅へ向かって、それでも今を生きるということがどういうことか。彼ら彼女らの心中に、僕の想像は遠く届かない。言葉にすることもできない。

 

村へ帰ってきた者の棺を運ぶ葬列が、放射線管理区域の標識を前景に映し出される。スクリーンの彼方へ向かって、モノクロの雪景色の中を行く彼らの背中に、言いようのない切なさを感じた。

その切なさは、映画を回想すればするほど、シークエンスを反芻すればするほど、僕の心身に染み渡っていく。紋切り型の切なさではない、これ以上ないほど切実な切なさ。

それが表現されるため、この映画はあくまでも美しくあらねばならなかったのだと思う。 

 

 

 

 


 

 

アレクセイと泉  

2012.7.22 カピオホール

 


ノバホールで見た“アレクセイと泉”は深く心に残っていました。今回、福島の原発事故にあって、再び見た“アレクセイと泉”は、より強く悲しい気持ちになりました。そして、一回目で原発の恐ろしさになぜ気がつかなかったのだろう、恥ずかしい気がしました。原発反対のデモに行ってきました。どうしたら原発廃止にもっていけるか、行動し続けたいと思っています。アレクセイは元気ですか?

 

 


観に来て本当に良かった

原発に関する映画はなかなかふつーの映画館では見れないので、どんどんやって欲しいです。

 


 

ナージャの村に引き続きみせていただきました。

アレクセイのことばは本当にやさしく、じんわりきます。私もノートに書きとめたいコトバがたくさんありました。

“働くことは食べること”って本当はこういう生活のことなんだなーと思いました。「生活のひき算」自分なりに考えて少しずつ。 NO NUKES!!の本当の意味を知るよい機会になりました。

 


 

監督の話が聞けてすごくよかったです。

普通の暮らしが行なわれていることが、まるで原発の映画ではなく感じました。

 



①“村が地図から消えた”って、どういうことなのだろう。

村民がいなくなって消された?存在しなくなった?

 

②汚染の数値 キュリーで表記され 福島でよく聞いた単位と違うため比較できず困った

 

③末代まで禍を残す原発事故 どうしてそれを“必要”と認められるのか?

 

 

 

 

映画もすごくよかったですが、本橋さんのお話が心にすごくひびきました。また、やってください。ありがとうございました。

 

 

 

 

あの美しい村で普通に生活して生を全うする事の素晴しさを思いました。人の根本にあるものは、ああいう暮らしをするということなのだと思います。

 

 


監督の話が長い。スライドを交えて撮影秘話を中心に語って欲しい。

 

 


○ とてもきれいな景色で、すっかり放射能のことなど忘れて、その生活ぶりに見入ってしまいました。わたしも現地に行ってみたいです。

 

 

 

アレクセイの言葉や語りがよかった。泉の木枠を作り終えてこれが最後の木枠つくりになるだろうという言葉がしみじみと考えさせられた。

映像も音楽もとてもスバラシかったです。

 

 


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